出会いは別れの始まり。
出会いには必ず意味がある。
ペットを飼うと決めるその前から必ず死や別れが訪れることは分かっていたはずなのに。
それでもここまで喪失感が強いとは思っていなかった。
- 何も手につかない
- 何をしていても涙が出てくる
- 近所を歩いている時、似た犬や猫を見るだけで涙が止まらない
- いつも寂しい気持ちが押し寄せる
いつになればこの気持ちから解放されるのか?と思う気持ちで落ち着く人もいる。
飼い主である自分の責任だと背負いこんでしまい、後追いで死を考えてしまうような人もいる。
人の言葉が悲しみを和らげてくれると思っていたのにいざその時が訪れたら何の言葉も届かないほど深い心の傷を背負う人もいる。
実際に私も数日前に買っていた犬が亡くなった。
14年という時間を共に過ごし、2頭目の犬でしたが幼い頃からずっと家族の一部のように育ててきた。
今回の愛犬を亡くし、今失望のどん底にいる時間の中で純粋に感じている気持ちをそのまま綴ってみようと思います。
私は実際に2年前に30代で親友を病気で失った。
それから数年もたたない間に今回は犬を失った。
でも心のどこかで2020年の今を見ると正直今でよかったと思ってあげたい部分もあります。
今回のページでは、今日まさに愛するペットの死からしっかり次の一歩を踏み出そうと家族で支えあいを開始している時間で心の整理をしようとするタイミングの感情について以下の項目でご紹介しています。
愛するペットの死に直面する予兆
愛するペットの死に直面した現実
愛するペットの死と家族の絆
今はもう天国に荼毘だってしまったのが現実。
でもまあまだその現実に向き合う心の整理がつかない。
初めてのペットを失った人は、これからをどうやって生きるのかすら見えなくなってしまうほどの辛さがあるのかもしれない。
でもそんなあなたを天国にいるペットたちは願っていないはず。
今までの感謝とこれから強く生きる姿を見せてあげたい。
こんな気持ちを心のどこかに用意しながらご覧ください。
愛するペットの死に直面する予兆
私たちの飼った犬は子どもの頃からずっと動物病院で何か治療を行ってきました。
動物も生きる間には人と一緒で治療が必要な箇所があれば治してあげなければいけない。
治療費というお金もかけ、時間も使い、必死にわが子のように育ててきた。
しかし、人と同じでいくら愛する子と思っていても年齢にはかなわない。
12年経過の時期から介護が始まる
今思うと実際にはがんだったのだ。
その予兆は少しずつ出ていた。
しかし、なぜか人間でも症状が出てからしばらくすると何事もなかったかのように自然に落ち着くようなケースがある。
無理に必要以上に投薬をさせたくない。
こんな気持ちから、あまり多くの治療を受けさせないようにしようと私たちは家族で決めていました。
その代わりに、少しでも自分たちの暮らしの中で後悔をしないように最後まで必死に今この瞬間を大切に一緒に過ごしてきました。
しかし、この半年ほど前に突発的なけいれんを起こし始めたのです。
1匹目の犬と同じ光景
我が家で飼った犬たちの最後はみな静かになくなっています。
何事もなかったかのように静かに眠りにつく。
しかし、その前に必ず同じようにけいれんを繰り返していたのです。
この光景を見た瞬間に
「もうそろそろ最後の時が近づいているのかもしれない。」
これが家族の中で失ってしまうかもしれないという心の準備をする時期となっていました。
愛するペットの死に直面した現実
実際に訪れた最後を自分の人生の中での記録としてご紹介していきます。
人間と同じように家の中で室内犬として育った2匹目。
今回のケースでは、とてもその日に亡くなってしまうとは思えないほどとても食欲もあってぐっすり昼寝をしているような光景でした。
しかし、静かにその終わりの時を迎えようとしていたのです。
お風呂でシャワーを浴び、その後深い眠りについたと思って寝息を聞いていた後、少し時間が経過したら、次の瞬間もう息をしていない姿に変わっていたのです。
「息してない」
この言葉を聞いた時、慌てて家族が駆け寄る。
しかし、やはり心臓も動いていない。
とうとうこの時が来てしまった。
でもなぜ今?
もう少しこの穏やかな日常を過ごせると思っていたのに。
突然訪れ最後に家族も同じように年を重ねていたことで1匹目の時のような愛犬の死の受け入れが出来なくなっていたのです。
愛するペットの死と家族の絆
今深い悲しみの中で暮らす私の実家。
しかし、その話を聞いて私は常に家族一人ひとりの気持ちを確認しながら次の一歩を考えるようにしている。
本当の意味で心をすべて理解してあげることは難しい。
でもまずはやってあげなければいけないことがある。
自責の念からの解放
犬猫関連のペットロスについて、多くの人が一緒に過ごしていた時間の中で死んでからつらい気持ちになる理由の一つに「あの時、」という「たら・れば」を口にするケースが多い。
でもこの感情は人と同じ。
もういくらその時のことを思い出しても死んでしまった現実が変わることはありません。
その辛い経験はもう過ぎたこと。
どんなに責任を取ろうと思ってもどうすることもできません。
これを私たちは、親族や親、身内が亡くなる時に何度も話し合いました。
その瞬間が訪れるまでの生前に悔いを残すことがないようにしよう。
いい意味で大好きな人を失ったから泣いてしまうことはあるかもしれない。
でもそれは、その人の人生からの解放であり、次の自由への一歩を送り出す時間いしなければいけない。
悲しい、苦しい、せつないだけを口にしていては、送られる人も幸せになれない。
愛猫愛犬を問わず伝えたい。
自分の子どものようにかわいがっていたというなら、やはりその子どもが介護を必要としている状態でも生きているだけマシと思って過ごしていたと思います。
でもその対象が永遠に眠る状況になったら、あなたは何と向き合うべきなのか?
この答えとして、ありがとうと送り出す自分と向き合うのだと思ってほしい。
医療の現場でも学んだこと
私は長い社会人の人生をほぼ医療の現場で経験してきました。
その中で初めて自分を実の子どものようにかわいがってくださった方との初めての死別を経験した時、他人なのにその人が旅立ってしまうという現実に直面し、涙したことがありました。
この時、親族からこんな温かいお言葉をいただいたことを一生忘れません。
「あなたが○○さんでしたか。母が生前ずっとあなたの話をされていました。亡くなった自分の子どもを見ているようだ、もう一度この年であの子に会えた気がする」
こんな言葉を口にして、私のいる現場で支えてもらったのが最後でよかったと口にしていたようでした。
この時の親族からは笑顔がありました。
しっかり前を向いてみんなで支えあうことの重要性を改めて教えられた。
ペットは今の時代は、もう人以上の心の支えになっているのかもしれません。
一緒に朝起きて、一緒に寝る。
言葉は通じないけど、感情の変化を敏感に察知し、何とか元気づけようとしてくれる。
こんな場面に、「無償の愛」という言葉がぴったりなんだと思います。
彼らペットたちが本当の意味で人と同様に家族の一員になれたと感じられたなら、その死に直面した後に求められるのも同じ。
「死んだ人は生き返らないけど心の中にはずっと生き続けている。」
1匹目の愛犬の名も思い出もすべては飼い主の心の中で鮮明に画像や映像のように残っている。
この記憶に書き込まれた内容があれば、動物たちも生きてきた中で自分の死と向き合うことができたのだと思います。
世話をしたとかそんな感情よりも一緒に生きていてくれたことに感謝。
そして、その彼らがどこで見ていても恥ずかしくない強く生きる姿を見せてあげなければいけないのかもしれない。